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第2話  通知

last update publish date: 2026-08-27 15:49:30

 午後二時。

 沙耶はパソコンの画面を見つめたまま、冷めたコーヒーに口をつけた。

 カフェの女性オーナーへのロゴ案は、昨日の続きからさらに手を加えて、三パターンまで絞り込んだ。Aは洗練されているけれど少し冷たい印象がある。Cは温かみがあるが、少し素朴すぎるかもしれない。そしてB──シンプルで、でも芯がある。余白の使い方が、依頼主の言葉と重なる気がした。

 「自分のお店なのに、なかなか形にできなくて」

 最初の打ち合わせで、彼女はそう言っていた。恥ずかしそうに、でも真剣な目で。形にできない何かを、ずっと抱えていた人の顔だった。

 沙耶の指は自然とBパターンに動いた。

 これがいい。理屈じゃなく、そう思った。デザインをしているとき、たまにこういう瞬間が来る。考えるより先に、手が答えを知っている瞬間。沙耶はこの感覚が好きだった。というより──この感覚だけが、今の自分に残っている「好き」だと、最近そんなふうに思うことがある。

 好きなものが、まだちゃんとある。

 それだけで、今日という日が少し違う色になる気がした。

 スマートフォンが振動した。

 画面を見ると、知らないアドレスからのメッセージだった。SNSのDM。沙耶がポートフォリオ用に作ったアカウントへの通知だ。最近は月に一件か二件、小さな依頼が来ることもある。たいていは個人経営の飲食店か、ハンドメイド作家からだ。単価は高くない。でも、自分の名前で仕事をしているという感覚が、沙耶には必要だった。

 画面を開く。

岸谷沙耶きしたにさやさん、はじめまして。

KAN DESIGN LABという会社を経営している、神崎蓮かんざきれんと申します。

先日、岸谷さんのポートフォリオを拝見しました。

ブランディングの軸がブレていない点、非常に興味深く拝見しました。

もしよろしければ、一度お話を聞かせていただけますか。

詳細はお電話もしくはオンラインでご説明できればと思います。

ご検討のほど、よろしくお願いいたします。

神崎蓮

 沙耶は三回、読み直した。

 文面は丁寧で、過不足がない。売り込みでも値踏みでもなく、ただ率直に、話を聞かせてほしいと書いてある。こういうメッセージは珍しかった。たいていは最初から「安くできますか」か「○○風のデザインで」という条件から入ってくる。あるいは、実績を列挙して「このレベルの仕事ができますか」と試すような文面だったりする。

 でもこれは違った。

 KAN DESIGN LAB。

 沙耶はすぐに検索した。IT系のスタートアップ。設立五年。代表・神崎蓮、三十五歳。会社のサイトは洗練されていて、無駄がない。手がけたブランドのリストには、聞き覚えのある名前がいくつか並んでいた。小さくない会社だ。少なくとも、沙耶がこれまで受けてきた依頼とは、規模が違う。

 なんで私に?

 それが正直な感想だった。

 沙耶のポートフォリオは、自分でも地味だと思っている。華やかさより誠実さを優先したデザインばかりで、目を引くような実績はない。カフェのロゴ、小さな雑貨店のフライヤー、個人作家のブランドロゴ。どれも規模の小さな仕事だ。それが「ブランディングの軸がブレていない」という評価につながるとは、正直思っていなかった。

 もう一度、その一文を読んだ。

 ブランディングの軸がブレていない。

 誰かにそんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。仕事の話ではなく、もっと広い意味で──自分の何かをちゃんと見てもらったと感じたのは。

 沙耶は少しの間、スマートフォンを持ったまま動けなかった。

 返信を書こうとして、手が止まった。

 達哉に言うべきか。

 頭をよぎったのは、それだった。

 以前、少し大きめの案件が入ったとき、達哉に話したことがある。嬉しくて、思わず夕食のときに報告した。達哉は箸を止めずに言った。

「へえ。でも続かないでしょ、そういうの」

 それだけだった。

 否定でも肯定でもなく、ただ興味のない相槌のような一言。沙耶はその夜、返事をどう書くか三十分考えて、結局「ありがとうございます、頑張ります」とだけ送った。達哉にではなく、クライアントに。

 達哉に話した意味は、あの夜から今日まで、一度も生まれなかった。

 今回は、言わなくていいかもしれない。

 そう思ったことに、沙耶は自分で少し驚いた。隠すわけじゃない。ただ──まだ何も決まっていないうちに話して、また水を差されるのが怖かった。あの「でも続かないでしょ」という声が、頭の中で再生される前に、自分でこの気持ちに蓋をしてしまいたくなかった。

 それだけのことだ、と沙耶は自分に言い聞かせた。

 返信を書き始めた。

 何度か書いては消して、また書いた。丁寧すぎず、でも失礼にならないように。硬くなりすぎず、でも軽くもなく。自分の言葉で、ちゃんと書きたかった。

 最終的にこうなった。

神崎様

はじめまして、岸谷沙耶と申します。

ご連絡いただきありがとうございます。

ポートフォリオをご覧いただけたこと、大変嬉しく思います。

ぜひ一度、お話をお聞かせいただければ幸いです。

ご都合のよい日時をいくつかお知らせいただけますでしょうか。

よろしくお願いいたします。

岸谷沙耶

 送信ボタンを押す。

 小さな、でも確かな緊張があった。うまくいくかどうかわからない。断られるかもしれない。でも──送れた。それだけで今日は十分だと、沙耶は思った。

 冷めたコーヒーをもう一口飲んだ。悪くない味がした。

 夜、達哉が帰ってきた。

 「おかえり」と言うと、達哉は靴を脱ぎながら「メシ、できてる?」とだけ言った。

 「できてるよ」

 「何?」

 「鶏の照り焼きと、味噌汁」

 「ふーん」

 それだけだった。

 沙耶は夕食を温め直しながら、今日の午後のことを思い出した。神崎蓮からのDM。KAN DESIGN LAB。「ブランディングの軸がブレていない」という言葉。送信ボタンを押したときの、あの小さな緊張。

 達哉はテーブルに座って、またスマートフォンを開いていた。画面の光が、横顔を青白く照らしている。二年前、この人と結婚したとき、こんな夜が続くとは思っていなかった。思っていなかったというより──想像すらしていなかった。

 言わなかった。

 今日のことを、達哉に何も話さなかった。話せなかったのではなく、話したくなかった。その違いに、沙耶は今さら気づいた。

 「ねえ」と言いかけて、やめた。

 何を言おうとしたのか、自分でもわからなかった。ただ何か、この静けさを破る言葉が欲しかっただけかもしれない。

 沙耶は黙って、鍋の前に戻った。

 久しぶりだな、と思った。

 何かを楽しみにするのが、こんなに久しぶりだなんて。

 返信が来るかどうかはわからない。でも今夜は、それだけを楽しみに眠れる気がした。

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